黒塚 編
平安朝の歌人に詠まれ、室町期の謡曲の題材になり、芭蕉も足を止めた、鬼女伝説が残る奥州安達ヶ原(二本松市)を訪れてみました。
奥州安達ヶ原黒塚は、奈良時代の神亀三年(西暦七二六年)紀州熊野の僧、東光坊阿闍梨祐慶が、如意輪観音菩薩を念じ、破魔の真弓に金剛の矢をつがえ、鬼婆を射て、埋葬したところである。
案内板「奥州安達ヶ原黒塚の由来」
鬼婆が住んでいたと伝えられる岩屋です。現在は黒塚の傍の観世寺の境内にあります。
(探訪メモ2)
探報土産は老舗玉嶋屋の玉羊羹!
羊羹を丸く包むとは和菓子のコペルニクス革命といっていいかも。その結果、ツマヨウジでプチンと刺してツルリと皮を剥くや、香り立ち、上品な甘さに至る、という五感総動員の至福に包まれるのであります。
【参考】
二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。(「おくのほそ道」)
二本松の町、奥方ノはづれニ亀ガヒト云町有。ソレヨリ右之方ヘ切レ、右は田、左は山ギワヲ通リテ壱リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。ソノ向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タヽミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。右の移植し所は鬼をウヅメシ所成らん、ト別当坊申ス。天台宗也。(「曾良旅日記」)
芭蕉 おくのほそ道(岩波文庫)
ここ安達ヶ原の「鬼婆」は、その名を「岩手」といい、京都のある公卿屋敷の乳母であった。永年手しおにかけて育てた姫の病気を治したい一心から、「妊婦の生肝を飲ませれば治る。」という易者の言葉を信じ、遠くみちにくに旅立ち、たどりついた場所が、ここ安達ヶ原の岩屋だった。
木枯らしの吹く晩秋の夕暮れどき、生駒之助・恋衣と名のる若夫婦が一夜の宿をこうたが、その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、生駒之助は薬を求めに出ていった。
老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、出刃包丁をふるって、苦しむ恋衣の腹を裂き「生肝」を取ったが、苦しい息の下から「私達は小さい時京都で別れた母を探し歩いているのです。」と語った恋衣の言葉を思い出し持っていたお守袋を見てびっくり。これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまったという。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を食らいつとはなしに「安達ヶ原の鬼婆」といわれるようになり、全国にその名が知れ渡った。
数年後、紀州熊野の僧「阿闍梨祐慶東光坊」が安達ヶ原を訪れ、部屋の秘密を知り逃げた。老婆すさまじい剣幕で追いかけてくる。東光坊今はこれまでと、安坐す如意輪観音の笈をおろし祈願するや尊像は虚空はるかに舞い上がって一大光明を放ち、白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。
奥州安達ヶ原「黒塚」縁起概説(真弓山 観世寺)